過去の記録

  賢女手習並新暦

願いを込めて〜この作品が私にもたらしたもの 城谷小夜子

 もうすぐ舞台が始まる。幕が上がり幕が下りる。毎回これを繰り返しているのだが、この物語との出会いはまた特別な思いがある。共時性が幾たびも起きるという、ちょっとおもしろい体験をしている。発端は今から九年前にさかのぼる。

 まだ前進座に所属していた頃のことである。金沢の山本和子さんに連れられて、宝泉寺さんの護摩によく参加させて貰った。その日の護摩は、「愛染さん」だと辻雅榮さんは言い、そのご説法で初めて愛染さんの六本の腕のはなしを聞いたのだ。「ええはなしやなぁ、みんなに聞かせたいなぁ」こうして愛染さんとの縁は出来たが、出会うまでにはその後何年もの時を必要とした。

 病気の義母が遂に寝たきりになり前進座を退座させて貰った。しかしその一年後NPO法人を立ち上げた。近松が六十三才で書いた作品『大経師昔暦』を上演したとき、その三十年前に『賢女手習並新暦』を書いていることを知った。なぜか読みたかった。篠田先生が探してくれた。読んだ瞬間、驚いた。愛染明王がでてくる物語なのだ。三年前、「次はこれを上演する」と宣言した。

 去夏義母が六年九ヶ月の在宅での療養の後亡くなり、一人娘は結婚で家を出た。いよいよこの作品に取りかかったが、なんともどうしていいか解らない作品で、悩みに悩んだ。チラシを作るので、何年振りの再演か調べた。大阪文楽協会の小早川圭子さんが「どうも初演以来再演されていないようなので、国会図書館で調べてね」といわれた。昭和二年に発行された近世邦楽年表により、三百二十一年間再演されていないことが解った。興奮した。しかし、なぜ・・・?

 杉森信盛(後の近松)のあこがれの君である宇治加賀之掾。この人の弟子に清水理太夫がいた。彼は、加賀之掾の元を飛び出し、近松とコンビを組み、竹本義太夫と名も変えて「竹本座」を旗揚げした。作品は近松門左衛門『世継曽我』。しかしその直前、貞享の改暦を題材にした『賢女手習並新暦』を義太夫は正本として出している。作者の名前はない。近松の作というのが大方の見方である。改暦は貞享元年(一八六四)十一月下旬。日本の暦に変わったという大事件であった。劇場が、この題材を逃すはずはなかった。しかし、貞享二年(一八六五)正月に新暦の演目を出したい。そこで、井上播磨掾の『賢女手習鑑』に新暦のはなしを書き足したのがこの『賢女手習並新暦』をいわれている。(その後、大橋正叔先生との出会いによって、これは近松作ではないと私も思うが、この時のわたしはまだ近松作だと思っていた。)京都から出てきた宇治加賀之掾は、大阪道頓堀で西鶴の『暦』をかけたが不評で、演目を『凱旋八島』に差し替えたが、なんと、不幸にも小屋から火事が出て宇治加賀之掾は京都に帰った、とある。

 わたしはふと、「宇治加賀之掾と西鶴は義太夫と近松を恨んではいないか。義太夫と近松は、宇治加賀之掾と西鶴のお供養して貰いたいのではないか」と思った。辻雅榮さんに電話した。「四人の戒名調べて下さい」戒名は、高野さんと篠田先生が見つけてくれた。三月十三日、護摩焚きの前日、山本和子さんの家に泊まらせて貰った。その戒名の紙をFAXして貰った。三月十四日、朝九時に卯辰山に登った。辻のりこさんに、チラシや台本と一緒に、戒名を書いた紙も渡した。かこちゃんが「小夜ちゃん、そのFAXした紙、東京に持って帰ったら・・・」といってくれた。「そうやね」と返して貰いファイルに挟んだ、確かに。のりこさんが本堂にお供えにいった。ふと、戒名をもう一度見ようと思った。が・・ない、ない、ない。「かこちゃん、さっきのFAXした戒名の紙、どうしたっけ?」「ファイルに入れたじゃない」「ないんだよね・・・」探した。かこちゃんが、隣の本堂のわたしのバッグの上にその紙が乗っているのを見つけた。キャーと叫んだ。紙がテレポートするなんて・・・。SFの世界じゃあるまいし。しかし本当のことだ。雅榮さんは「違うと言うことでしょう。」と平然としていた。雅榮さんは「火事は何日ですか?十四か二十四だと思うんやが・・・」三日前に夢を見たと言う。「大川があって、並んでいる家の一軒が火事でそこだけさら地になっていた。大勢亡くなったので、お供養しようと、お坊さんに声をかけたが駄目で、尼さん2人が手伝ってくれた」という夢。「小夜子さん、今日は火事で亡くなった方たちの供養ですわ。だから紙を飛ばしたんでしょう」と言った。帰宅後、篠田先生が「火事は、貞享二年三月二十四日」と、大橋正叔先生と信田純一先生の論文を送ってくれた。「え〜、貞享三年一月でないの!?」 この大橋先生の論文に惹かれた。会いたいと思った。四月九日に、天理大学の大橋先生をお訪ねした。「先生は、この作品は近松のものと思いますか?」「違うでしょうね」ええええ!「先生近松の存擬作じゃないと困ります」しかし、心の中で「やっぱりそうか」と思っている自分がいた。どうしても近松を感じることが出来なかったからである。この日を境に、わたしの悩みが深くなった。近松の作品でないのなら何故やるの?台本を完成させることが出来ないのだ。四月二十二日 米津先生のお宅で賢女を上演してみた。米津千之先生曰く「難しくすぎる。君の説明が必要。」関きよし先生曰く「新暦はどうなったのかな?」「“かぶく”っていうことどう思いますか?」「観客は物語を分かりたくて来るんじゃないんだよね」宮下長昭さん曰く「題名と内容が一致しない」この三人の言葉が、私を奮い立たせた。近松の作品でないのなら、原文にこだわり過ぎなくていいと言うこと、むしろ私の伝えたいメッセージを芝居に書き込めばいいのだという気持ちになった。そして、近松さんに力になって貰い書き上げたい、と本気で思ったのだ。その夜から書き始め、午前二時台本が書き上がった。長い長いトンネルをやっとくぐり抜けた気持ちだった。わぁーと叫びたいほど嬉しかった。四月二十三日 午前十一時から出演者全員集まっての稽古。みな乗った。わくわくした、楽しかった。出演者たちが乗る芝居はグッドなのだ。芝居が見えた瞬間だった。

 雅榮さんがいったことばが蘇る。「小夜子さん、芝居は一人では出来ませんわ。大勢の人の手伝いがあって出来るもんです。小夜子さん芝居やめたらあきません。あのときの人もみんな来てくれますわ」本当にそうだ。この台本は私が書いたのではない。あの世の人たちも含めて、わたしに影響を与えてくれたたくさんの人たちのお陰だ。この芝居をやるのに、密教のことを知りたいと思ったら、津田眞一先生のゼミに入れて貰い本覚思想と法華経を学びだした。うちの住職だということがすごい縁だと思う。「人生には哲学が必要で且つ学問は楽しいものである」という津田先生に共感。勝鬘山愛染堂の奥田聖應先生とも引き合わせて頂き、西国愛染十七霊場との出会いに繋がっていった。高野誠鮮さんには「不二」という思想を指摘して貰った。近松、義太夫、宇治加賀之掾が日蓮宗であったことから、初日の舞台は、羽咋市の重要文化財の妙成寺でさせて頂く。これも有り難いことである。

 お客様の入りは、どういうことになるのか、皆目検討つかないが、以前ほどあせっていない自分がいる。なぜなら、私がやるべき本来の私の仕事がやっとわかってきたのだから。わたしは「かぶきもの」なのだ。自分の本質本業を全うできたらこれに勝る喜びはない。「劇場で私たちと一緒の時間を過ごし、一緒に芝居を体験して下さい」と声をかけ続け、先祖を供養するのが私の仕事だ。このことを自覚させてくれたのがまさにこの作品なのである。九年前の発願が今実現しようとしている。有難い。この芝居が誰かの力になれば、これに勝る喜びはない。
 
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