過去の記録

  賢女手習並新暦

2007年(平成19年)5月28日〜6月6日
「賢女手習並新暦」初演
“わたしはこう関わった”リレー旅日記

5月29日(火)石川県羽咋市の上演
日蓮宗 妙法寺 副住職 高野 誠鮮(じょうせん)
日像菩薩と近松門左衛門
【奉納上演に込められた本当の理由-法縁】

 石川県羽咋市にある金栄山 妙成寺の客殿。平成19年5月29日の火曜日、午後2時からの近松門左衛門、竹本義太夫、宇治加賀椽、井原西鶴関係者の追善法要と「賢女手習並新暦」の320年ぶりの興業成功の祈願式が勤修された。平日の午後だから40〜50人も参集者がいればいい方だと思っていたが、座布団は足りず、当日は立ち見席がでるほど客殿は人で溢れかえった。150名以上の参集者を迎え、法要の後に上演が挙行された。終演を迎え「では、また次の世で〜」という城谷さんの最後のセリフとともにやってきたのはドォォーン、ドォォーンと客殿の戸すべてが二度大きく揺れるラップ現象。「いい演出でしたよ!」と言われてもスタッフはキョトンして誰も戸を揺らしているわけでもない。藤井日栄貫主様は、「諸天が天鼓を打たれましたね」と一言。
 近松を含み、この浄瑠璃の関係者には法華経信者が多く、『今昔操年代記』を読むと奇妙なことに気付く。例えば、井上播磨掾はもともと日蓮宗ではないのに、「はりま殿の外聞目出申納ぬ.木戸役者より御目出たの酒肴.せいろう山をなし.大坂よりハ門弟知べのもの.聞およびの生鯛生貝.鱧太刀魚のひかり芝居をてらし.毎日の酒盛.千秋楽万歳楽と祝びの中.太夫本心地あしきと.仮初の風重/\しく.京中にてあらゆる天医入かハり.療治の匕をつくすといへども.かぎりの命にてや有なん.次第/\にげんきおとろいぬ.目ずいしやうの都人にまで名人とよばれ.ほまれを夢の内にたのしミ.終にむじやうの風にさそハれ.五十四歳を此世の見おさめ王城の土)となりぬ.皆/\あん夜にともしびをうしなひ.せんかたなきからを長明寺ニおくり.昨日にかハる石塔戒名ばかり残しぬ.おもヘバおしき命.京大坂の男女おしなめ袖をしぼり.南無妙法蓮花経をとなへ.忌日名日とふらいぬ。」(原文のママ、下線筆者)と法華経で弔われている。近松自身も、廃寺となった禅宗の寺の広済寺を日蓮宗の寺院として復興し、彼の周囲には日蓮宗・法華経信仰の風香が漂っている。篤実な日蓮-法華経信奉者であった近松門左衛門(現福井県鯖江市出身)、彼の墓所は現在の兵庫県のこの広済寺にもあり、日蓮宗の日昌上人(1667-1738)は、荒れ果てた広済寺を再興し、これに協力した中の一人が近松であった。
 
能登から始まった都への法華経布教の旅

 現在、大阪・京都・兵庫の関西近畿地方に存在する日蓮宗寺院は、いずれも日像上人(1269―1342)の布教活動の足跡から発生している。日蓮聖人の孫弟子で、日蓮聖人が佐渡に島流しにされた時、聖人と一緒に日朗上人と共に佐渡に一緒に渡ってきている。そこで日像上人は都(当時の京都)布教を命じられ、単身佐渡から船で能登に渡り、永仁2年(1294)4月、上人は佐渡から京への布教に旅立つ。この船に乗船していた真言宗石動山天平寺の座主・満蔵法院(乗微)と法論に及び、祈伏教化の後、乗微は日乗と改め、叔父の羽咋郡滝谷の領主・柴原法光の助力を得て法華堂を造立している。佐渡からの能登へは石動山天平寺への物資船で、能登に上陸し、能登の真言宗の中心であった天平山(鹿島郡鹿島町)へ登り、満蔵法院の薦めによって、僧侶・衆徒相手に法華経の法談をした。しかし石動山の寺坊や衆徒たちは、日像、法華経の教えは真言宗を惑わす佛敵だと言って、夜間に日像暗殺を企てる。満蔵法院は日像上人にこの旨を告げ、石動山から去るよう手配した。しかし、僧兵衆徒たちは『佛敵日像の成敗』と言って追っ手を差し向けた。 日像上人を死守するよう満蔵法院から言いつけられていた西馬場の加賀太郎、北太郎兄弟二人が上人を救わんとと追っ手を防ぎ、濁り川(長曽川上流)土手道の徳前川原で小競り合いになり、多勢に無勢で追われ、良川境に近い西馬場の「鉾木畷」まで撤退したが、狂信し暴徒化した真言宗徒たちに惨殺された。時に北太郎享年32歳、加賀太郎享年35歳。一足先に逃げてきた日像上人は、西馬場(鹿西町)に近い『早稲田畷』の道端の石に腰掛け、法華経を唱えられ二人を供養されている。現在この場所には本土寺が建立されている。その後上人は羽咋市滝谷「妙成寺」へ入って、後の住職となる日常上人の庇護を受けた。槐の杖を渡し、「一木が成ったら一寺建立」を願われ、金沢・福井・京都へと布教行脚活動されている。当時、京都で布教することは並大抵のことではなかった。比叡山や他宗の圧力があり、上皇の命で流罪となり京都を追放された。2年後に許され京都に帰ったものの、翌年には再び逮捕され流罪となる。このように、法難と迫害そして三度の追放と三度の赦免という「三黜三赦(さんちつさんしや)の法難」を受けながらも日像上人は都の布教に尽力され、ついに天皇から地所を拝領され日蓮宗の拠点が建立しはじめ、そして近松の墓所等が創り上げられていった。この浄瑠璃奉納は、信者であった近松門左衛門や関係者の追善供養と像師の布教の足跡を辿るための奉納でもあるとは、こうした理由によるものである。
 父親の杉盛信義は本圀寺に「智妙院道喜日勘居士」として眠り、近松門左衛門の妻は、松屋家の歴代の菩提寺として法妙寺に眠っている。日像上人がいなければ、作家近松も存在しえないし、彼の思想信条も作風もきっと変わっていたことであろう。

 近松の作品には法華経を通じた「善悪不二」思想が流れており、特にこの作品の最後の一言、あだ討ちをし終わっても「万歳とはなかなか申すばかりはなかりけれ」という一言に帰結している。同じ宗派間対立や民族紛争が続いている今日、この作品は一つの解決策を世に暗示しているようだ。布教活動中に生じた真言宗・日蓮宗間の不幸な過去の事件、この奉納はこうした確執を解き放ち、単純な善悪二元論で対立する現代の憎しみの連鎖を食い止める視点も提示しているようである。近松の作品を奉納する意図は、歴史の中で繰り返されてきた対立を超越し、過去の過ちを繰り返さないという平和の願いも込められている。能登の日蓮宗寺院と金沢の真言宗寺院の奉納には、この意味で大変重要な意味がある。320年以上も再演されなかった理由の一つがここにありそうだ。(了)
  • 6月1日(金)大阪
    山本能楽堂(谷町4丁目)午後3時と午後7時公演
  • 6月2日(土)京都
    大江能楽堂(御所近く)午後3時公演

旅日記〜金沢の部 篠田 裕

 5月30日、翌日の公演にそなえて、城谷さんと大久保さんが宝泉寺のお掃除に先発。残留組は、金沢の近江町市場見学にでかける。新鮮な魚介類を、目で堪能した。
  夕方、会場設営・リハーサルのため宝泉寺へ向かう。荷物を満載した我が愛車のカーナビは、卯辰山の宝泉寺を的確に示してはいたが、東山の交差点から山道に入るところで音声案内が間違っていて、2度も町中を迂回するはめになり、楽屋荷物・器材を待っていた皆さんをイライラさせた。夜、辻雅榮住職が戻られて、本格的な設営が始まった。須弥壇の御簾を外し、経机・鈴・賽銭箱まで移動。照明器具がセットアップされて、舞台空間がほぼ完成。お客様の数は30名と予想して、座布団を敷いた。リハーサルが始まり、辻住職も交えて駄目出しが進む。その後、羽咋の宮本さんからいただいた香の扱いを教わり、上演に際して香を焚くノウハウを教わった。
  ホテルに戻ると、差し入れのケーキが待っていたので、フロントから包丁を借りて、ロビーで皆でおいしくいただいた。

 5月31日、朝5時過ぎ起床。城谷さんが運転を買って出て、お寺へ向かう。6時から護摩焚き。城谷さんと山本和子さんは座布団に正座したが、私を含めたその他の人は、最初から椅子に座らせていただいた。瞑想そして護摩焚き、さまざまな思いが頭の中を駆けめぐる。それが静まって、護摩焚きが始まった。320年前の方々を想い、公演の盛況、無事を祈る。2時間の行のあと、朝食のためホテルへいったん戻った。
  11時から準備が始まる。羽咋での公演がマスコミで報道されたので、問い合わせが多数あったそうだが、夜来の雨が時折ぱらつき、出足を心配させる。辻住職が、御堂外の濡れ縁をぞうきんがけされ始めたので、「お手伝いします」と申し上げたら、外周りの掃除をということになり、箒で参道を掃き始めた。常に掃除が行き届いているようで、雨で流れてきた落ち葉や、降り落ちた落ち葉を集める程度の作業だったが、「修行の始め?」か、長く途方もない時間を感じた。
  須弥壇に地元の方が急遽持ち込んだ緋毛せんが敷かれ、観客席の前には白布が敷かれた。これで、さらに舞台らしくなったし、城谷さんが滑る懸念も無くなった。
  雨も止んだ午後3時、辻住職の勇壮な太鼓に合わせて、般若心経を皆で唱てから舞台が始まった。太鼓の響きに乗ったリズミカルで躍動感のある経文を聞くのは初めての経験だったが、「賢女手習并新暦」の幕開きにふさわしいものだった。
  観客数は、びったり30名。これにも驚いた。これ以上増えると、舞台横からの鑑賞になる。取材はケーブルテレビが1社。何とか会場に入れた。私は、ビデオと録音を担当したが、機器をスタートさせたあと、お客さんの間を移動できなくて、しばらくそこに突っ立っていた。あとで、城谷さんから「あの位置は、意地悪な演出家の立つ位置よ」と言われ、恐縮。城谷さんでも、プレッシャー感じるんだ‥‥。
  無事公演終了。花束が贈られ、キャスト・スタッフの紹介も和気藹々のうちに進んだ。山本和子さんのご案内で、お寿司屋さんで懇談。電車で移動する方々と別れて、我が楽屋荷物等積載車は大阪へ出発。順調に大阪を目指したが、琵琶湖北端に着いたあたりから吹田まで、補修工事のため片側1車線規制。スピードが半分以下となり、電車組より先に荷物を届けることをあきらめたが、それでも30分遅れ程度で到着。荷物を降ろしたあと、速攻で帰路に着いたが、途中のSAで爆睡、朝が明けてしまった。総行程1,800キロのドライブは、何とも締まらない幕切れとなった。


「能楽堂での大阪・京都公演」 和の輪理事 荒武恵美子

 今回の「賢女手習並新暦」は歴史ある能楽堂での初公演となりました。
 大阪の山本能楽堂は入り口が普通の家庭の玄関のようでしたが、中に入ると格式と威厳を感じさせるような、磨きこまれた立派な舞台でした。舞台の裏がすぐ楽屋になっていたので、物音や声が客席まで響かないよう気をつけました。アイロンを使っているうちに2度、3度ブレーカーが落ちたりするハプニングもありましたが、大阪和の輪の有志の皆様の多大なご協力で昼夜2回の公演も好評のうちに無事幕となりました。
 翌朝、ジャンボタクシーで京都の大江能楽堂へと移動しました。大江能楽堂では紅白の幕で迎えていただき、下足も個々に整理していただき、劇場では味わえない芝居小屋風の対応に感激しました。また、終演後お帰りになるお客様の、素晴らしかったと言うお声や、にこやかに輝いているお顔に私も嬉しくなりました。
 今回の能楽堂での公演では、照明等制約もありましたが、落ち着いた雰囲気でよかったと思いました。
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