過去の記録

城谷小夜子 NHKラジオ深夜便に出演
城谷小夜子は、「日本の演劇文化を世界に」と題して語る。
番組は人気の高い「ラジオ深夜便」の中のないとエッセーで、一人で自分の今やっていることなどを語る。
今回は城谷小夜子が和の輪で、やってきたことを海外との接点を中心に、将来の夢も語った。
ぜひともお聞き下さい。
 【と き】 2006年1月9日(月)〜12日(木)4夜連続
 【じかん】 午後11時30分ぐらいから約10分
 【番組名】 ラジオ深夜便のなかの「ないとエッセー」
 【局】 NHK第1放送 594ヘルツあたり
 【内容】 第1夜 和の輪を立ち上げるまで 
第2夜 海外とのつながり
第3夜 近松の舞台
第4夜 これからの夢
 
NHKラジオ深夜便のナイトエッセーで和の輪を語った
〜日本の舞台芸術を世界に〜
NPOグローバルシアター和の輪・代表/舞台女優
城谷小夜子(しろたにさよこ)
● 一日目 私の原点〜京都から女優に ●
 
 こんばんは。城谷小夜子です。今日から四日間お話させて頂きます。
 私は日本文化とは人類遺産だと思っています。もちろん、世界中の文化が人類遺産ですが、特にこの日本は、四季のはっきりした緑豊かな湿気の多い土壌で、それが『木と土の文化』を育てたと思っています。私はこの日本の分化を世界に、日本の心を世界に伝えたいと思っているんです。
 「こんな小さな島国で、こんなに美しい文化が育ちました」と、世界中の人に日本文化の素晴らしさ、美しさをシェアー=分かち合いたい、と思っています。
 「日本の心とは何か?」と、これは一人ずつ答えが違うと思うんですけども、私は「万物至る所に命と美を見出せる人々」だと思っているんです。
 漢字でいうと平和の「和」、という文字で表せるんではないでしょうか。 優しく、強く、美しいのが日本の心だと思っています。  

 なぜ私が日本の文化を世界に、と思うようになったかを考えてみましたら、3つの原因があるように思います。
 一つは、私が京都で生まれ育ったこと、二つ目に、母を早く亡くしたこと、三つ目に、 劇団前進座に入ったこと、この3つのような気がします。
 私は京都の西陣で生まれ育ちました。家は西陣の機を織っておりましたので、私は三つから六つまで、智恵光院通り丸太町上がったところにある「親愛保育園」に通いました。 当時としては珍しいクリスチャンの保育園で、両親の働く、比較的貧しい家の子が多かったと思います。いえいえ、昔は、みんな貧しかったんですよね・・。
 この時、踊りとか歌とかたくさんのことを保育園でやらせてもらったんですけど、先生が「小夜ちゃん上手やなぁ」と、私がどんな絵を描いても、どんなことをしても褒めてくれました。私だけが褒められたのではなくて、きっと、みんなのことを先生は褒めていたんだと思うんですけども、私は嬉しくてたまりませんでした。
 この親愛保育園で、歌ったり踊ったりして褒められた、という事が、今、女優の道を歩いている大きなきっかけだったな、と思います。
 そののち、正親小学校、二条中学、山城高校と進みました。

 人生、最初のショックが、私がまだ十九歳の時です。母が、三十九歳という若さで、胃がんで亡くなりました。この母が亡くなった時に不思議なことが起こりました。
 うちは、母の母、おばあちゃんと同居してたんですけど、おばぁちゃんと妹が周山(京都京北町)の病院へ行っていたんですね。
 私は、一番下の妹のあっちゃんと、当時四つでしたけども、一緒に寝ていました。あっちゃんが「あーん」と泣いたので、ふっと時計を見たら夜中の二時三十分でした。
 私は、またヨシヨシって、あっちゃんを寝させたんですけども、朝の七時に電話が入って・・・、母が亡くなったという知らせでした。
 時間を聞くと、二時三十分に母が亡くなっていたので、四つだったあっちゃんに「あっちゃん、なんで泣いたんえ?」と聞きましたら「おかぁちゃんが死なはった夢見た」と言いました。私はその時に、あーやっぱり死んだ人っていうのは、一番気になる人の所に帰ってくるというのは本当なんだなぁって思いましたし、死んでも残るものがあるんじゃないか、ということを十九歳から、ずっと・・思っているんです・・・。  

 母が三十九歳という若さで亡くなったんですけど、一つ思いだすことは、もう末期の癌だったんですけど、父と一緒にお見舞いに行ったとき、おかぁちゃんが起きたい、というので父が母を抱き起こしだんです。その時、おかぁちゃんが「お父ちゃんと結婚出来て幸せやったわぁ。」って言ったんですね。この子供にとって両親が、結婚出来て良かった、というか、幸せやったということを横で聞けた、っていうのは、これは、本当に私は悲しいけれど、こんなに嬉しいっていう事はなかったですね。その両親から私は生を受けたんだっていうことが嬉しかったんです。
 でも三十九歳という若さで自分の母が亡くなったことで、私は、こんなに早く死ぬなら思い切ってやりたいと思っていることをやりたいなぁ、と思ったんです。京都は、もう、とても素敵な町ですし、なにも自己主張して京都の山を越えて東京まで行かなくていいんですけども、まさかなれると思っていなかった女優の道を歩こうと決意することが出来たんです。それが、劇団前進座の養成所でした。
 その前に、私は大学にいけませんでしたので、京都大学のインド哲学の聴講生でサンスクリットを勉強していました。その時に落語研究会にも入って、一人で落語をやるのと出囃子を引くので三味線も習っていたんですね。それがのちのち近松の一人芝居に繋がって行きましたので、つくづく人生には無駄というのはないなぁと感じています。
 前進座に入らしてもらって、入座して四年で城谷克司と結婚し、女の子を出産しました。小百合というんですけども、今その子は二十三歳になります。
 その時、松戸に引っ越しまして、彼のお母さんと同居してもらい、四人の生活が始まりました。
 入座して十年目に、私にとって大きな出来事が起こりました。それはある主役をやらせてもらっていたお芝居の役を、今度大阪公演では外からスター女優さんがいらして出演される、という出来事でした。その時に、自分が役を降ろされたということで、もう辞めようかとか、ひねくれようかとか、諦めようかとか、抗議しようか、とか色々、もうネガティブなことを考えたんですけども、全くそれとは違う第五の道を選びました。
 それが、小松左京先生の『昔の女』という小説を自分でプロデュース公演することでした。前進座の中にあってそういうことをした方がいなかったので、色んなことがありましたけど、前進座はよく許可してくれたな・・と今感謝しています。
 お金がどんどんと出ていって、ホントにこんなにお金がかかると知らないで始めたんですけど、と同時にプロデューサーってこんなに面白い仕事をしているのかっていう事も学んだんです。小松左京先生には、その後も今もとても可愛がってもらっていますし、小松左京事務所の乙部順子さんは今私のやっております和の輪の副代表理事です。
 これがきっかけで、三作目に近松門左衛門の『女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)』を上演し、この作品でエジンバラフェスティバルに参加し、そこからロシアに招かれまして、ロシアのペルミと、モスクワと、サンクト・ペテルスブルクで、この『女殺油地獄』を国際交流基金の助成金を頂いて上演しました。
 このロシアでの公演がきっかけで、サンクト・ペテルスブルクの大変由緒ある二百二十六年の歴史を持っている演劇アカデミーという大学に招かれまして、私は日本人第一号の先生として、日本舞踊、歌舞伎の立ち回り、着付け、そして能、狂言、文楽のレクチャーも全て一人で教えさせていただきました。
 この授業は、ロシアの演劇を目指す学生さんたち、又、先生たちにも大変好評で、「日本文化ってやっぱりすごいんだなぁ」という私の自信に繋がったんですね。
 そのサンクトの演劇アカデミーで、ある時、アメリカのエール大学の先生と学生さんたちと出会いまして、「小夜子獲先生、日本文化の授業を今すぐやってくれ」と頼まれ、私はエール大学の学生さんたちにも授業を提供して、その事がのちのちエール大学の大学院で日本文化を紹介することに繋がっていきました。

 娘の小百合を育ててくれた、夫の母・・お母さんが脳梗塞で倒れたのが十一年前で、寝たきりになった二〇〇〇年の六月に、私は二十五年間いさせて頂いた前進座を退座させてもらいました。
 明日はこの続きをお話したいと思います。
 
● 二日目 和の輪のこと〜海外へ ●
 
 私は今、NPOグローバルシアター和の輪という劇団の代表をしています。
 「和の輪」とは最初の「和」は平和の和、「の」はひらがなで、もう一つの「輪」はわっかの輪と書くんです。
 この和というのは、日本を象徴するような言葉だと思います。
日本には、私は京都出身ですけれども、北海道から沖縄まで各地域に素晴らしい文化があるので、その全体を総称して『和』という言葉で表されると思っています。
 この日本の文化をワッカ、つまり、リング、繋げていく、又、日本の文化を外に、色んな国と繋げていくという意味で「和の輪」という名前を付けたんです。
 この和の輪というのは、もうホントに口からふっと出たんですけれども、私のやろうとしていることを象徴する、とてもいい言葉だと思っています。
 私の家族は、夫とそして今二十三歳になりました娘と、夫のお母さんの四人家族です。 お母さんが完全に寝たきりになったので、二〇〇〇年の六月に二十五年勤めた前進座を辞めさせてもらいました。
 その後、お母さんの介護をさせてもらいながら、私はパソコンの講習会にも行きました。ある朝、「NPO」という言葉が浮かんだんです。インターネットで調べて、すぐにあちこちのNPOの勉強会に行きました。その中で渡部勝(まさる)さんという名古屋の方なんですけども、この方と知り合いになり、渡部さんにNPOのことを相談しましたところ、「あなたはまだ若いし、あなたがやろうとしているモデルがないなら、自分で切り開いて、自分の思うように、何度でも失敗を繰り返しながら、自分の思う道が進んでいきなさい。」と応援してくださったんです。その言葉が、私を後押ししてくれたと思うんですけども、日米コミュニティ・エクスチェンジ=JUCEE、という日本とアメリカのNPOのインターン、=お互いに勉強しあいましょう=というプログラムに参加しました。二〇〇一年の二月でした。
 アメリカのサンフランシスコのジャパン・タウンの中にある『AATC=エイジアン・アメリカン・シアター・カンパニー(アジア系アメリカ劇団)』という劇団で私はNPOのインターンをしました。
 ところが、何日たっても、何も向こうからは教えてもらえないんですね。黙っていたら一日何もすることがないんです。アメリカという国はそういう国と思います。こちらが行動を起こさないと、向こうから何かを日本のように親切に教えてくれることはない。そこで私は制作のジェニーに、「歌舞伎ワークショップやりたい。」って言ったんです。そしたら、「いいでしょう、やりなさい」と。でも、それだけ。そのまま数日たちました。「ジェニー、私待ってるんだけど・・・」「なにを?」「どうして始めたらいいのかわからないので」
 「あなたが自分でやるって決めたことでしょ。自分でプログラム内容を決めて、自分で場所も探して、自分で新聞社へ行って宣伝して、チラシを印刷して配って、全て自分の責任の元でやりなさい」と。「ジェニー手伝ってくれる?」「ノー、私は忙しい」と言われておしまい。結局、彼女は何も手伝ってくれませんでした。「え〜じゃぁ、出来ない」って思ったらそれでおしまいでした。その時に私は思ったんですね。例え、誰一人参加者が来てくれなくても私には失敗はない。なぜなら『行動する』ということが一番大事だったからです。そして自分でチラシを作って、コピーもして、いろんなお店屋さんにチラシを貼らせてもらったり、新聞社に宣伝しにいったりして四週間歌舞伎ワークショップをやりました。
 蓋を開けて見たら、何十人もの色んな方が来て下さいました。ダメ元でFAXしておいた地元のTVにもインフォメーションが載り、それを見て参加した方もありました。サンフランシスコ州立大学の先生もいて、二回その先生のクラスに授業で呼ばれました。
 今もずっとお友達になってくれたアメリカ人も出来ました。
 成功裡に終わった時に、「ジェイニーありがとう。上手くいったわ。(ジェイニーが手伝ってくれなかったから)」ってなんか私はちらっと、そういうニュアンスで言ったような気がするんですけど、ジェイニーは、「そうよ。小夜子は日本に帰って一人でやろうとしてるんでしょ?私が手伝っちゃ駄目なのよ。あなたは一人でやらなきゃいけないんだ。だから、私は手伝わなかった。」って言うんですね。
 その事が私にとって、とても大きな自信になりました。
その年の十一月にはエール大学の大学院に招かれていました。これは五年も前にロシアのサンクト・ペテルスブルクの演劇アカデミーで出会って、「小夜子先生、エール大学に来てください」と言われたその約束を果たせる日がきたんです。
 エール大学の大学院では一回のレッスンが二時間半なんです。大学院生の一年生には日本舞踊、二年生には歌舞伎の立ち回り、三年生にはヴォイッス・エンド・ボディトレーニングを教えました。このヴォイッス・エンド・ボディトレーニングは、日本の武術とか日本的な発生とか日本的な動き、気功も取り入れたものでした。
 これをですね、エール大学の学生達はものすごいスピードで一生懸命学んでくれたんです。持っていった教材が足りなくなって、毎日、じゃぁ・・もう少し難しいことを教えてもいいだろうか・・。という風なことを思いながら、三週間学生達に教えることが出来ました。
 その後、帰国し、和の輪がNPO法人を取得し、そして順調な滑りだしをしていました。私は日本の作品をどうしても、世界各国で上演したい、という思いを・・今も強くもっていますけど、その当時も是非アメリカで上演したいと思い、ロサンゼルスの友達のところに行きました。そしてロスでなんとか公演できないだろうかと、劇団や劇場を探したんです。その時にある新聞記者の方が、あなたととてもフィットする日本女性がいる、ということで又村かずきさんを紹介してくれました。
 かずちゃんは、マイケルと二人で「シークレット・ローズ・シアター」という劇団と劇場経営をやっていました。教育や普及の部分はNPOファイヤー・ローズ・プロダクションで運営しているバイタリティあふれる日本人女性です。
 十五年ほど前にただ一人、ロサンゼルスに渡りステラ・アドラー演劇学校を卒業し、今マイケルと二人で、立派に、ホントに素晴らしく芝居を続けている女性です。
 かずちゃんと意気投合しました。俳優志望の学生さんたちのレッスン・ツアをこしらえたり、あちらの舞台に出演したり、共同で今、『八月十五夜の茶屋』という作品を日米で上演しようというような計画もあります。  

 私の海外での公演は、アメリカだけにとどまらず、ロシアでも続けています。
 去年創立二二五年祭に招かれまして、サンクト・ペテルスブルグの演劇アカデミー大学にゲスト・テーチャー&女優として招かれました。
 『心中天の網島』の「橋づくしの場」の踊りとワークショップをやりましたが、一番大きな部屋で満員の観客でした。日本文化への興味の高さがわかります。その時にですね、本当に知らなかったんですけど、二十五年に一回のフェスティバルだったんですね。
次は二百五十年祭で、二十五年先までないんですね。なんていう素敵な巡りあわせだろう!と思いました。ツイてますね。
 その時に色んな国の先生方と出会い、その中でルーマニア・ユネスコの代表の方が、是非ユネスコに来て学生達に日本文化を紹介して欲しいと頼まれました。私は喜んで伺います、と言って、去年の七月の約二週間程でしたけれども、十五カ国の演劇志望の学生達の前で日本文化を紹介しました。
 日本伝統文化とギリシャ劇がメンイのゲストティーチャーでした。ユネスコでも日本文化は興味を持って受け入れてもらえまして、私はますます日本文化を継承し、伝承してくれる人を育て、その人たちが世界中へ行って日本文化の素晴らしさを伝えて欲しいな、と思いました。
 その為にも、私はもっと深く日本の伝統文化を勉強して行かなくては、と思っています。。
 明日は近松門左衛門の一人芝居についてお話を勧めたいと思います。
 
● 三日目 近松作品とわたし ●
 
 私は近松門左衛門の芝居を続けています。
近松門左衛門は日本のシェークスピアとも言われ、海外で上演する時は日本のシェークスピアが近松です、という風にご紹介をしてお芝居を始めています。
 何人もの役が出てくるんですけれども、それを、私は語りも含めて、一人で衣装も替えないでやっているんです。ちょっと聞いて下さい。
女将「これはまぁまぁ珍しい小春殿。はるばるで小春殿」
小春「あ、これ、門で聞こえる高い声して小春、小春というてくだんすな。表にいや〜な李踏天(りとうてん)が来るわいなぁ」
太兵衛「あいや、これ小春どの。李踏天とは良い名をつけてくだんした。』
とまぁ、こんな感じで一人で色んな役をやるんですけれども、これが世界の方に見て頂きますと、とても面白い、という風に評価して頂いております。  

 日本という国の芸能の特徴は、私は一人芸にあるんじゃないか、と思うんですね。
日本舞踊なんかも女の人も男の人も必ず、女踊りも男踊りも勉強しますし、日本では歌舞伎という男優さんだけの伝統の演劇と、そして宝塚という女の人たちだけのお芝居が、ものすごいお芝居を呼んでいる面白い国だという風に思うんです。
 これから先も、日本の一人芝居を続けていくのに当り、日本独特の動きとかっていうのをある程度説明したりして芝居に入ったほうがより理解してもらえるかなって、楽しんでもらえるかなっ、ていう風に思ってるんです。例えば、小指を切ろうという仕草なんかは、おいらんが恋人にあなただけ好きよ、っていう証で小指を切るっていう風習があるんですけど、そんなのは、やっぱり分からないですね・・、日本でも分からないかなぁとも思うんですけれども・・、外国の方には、男になったり女になったり、歳もおばあちゃんになったり、子どもになったりというのをすごい楽しんで観てもらっています。
 私が十年ぶりで、近松門左衛門の「心中天の網島」を、第二作目として「やるぞ!」、と決めた時にですね、丁度サンフランシスコに行ったんですね。私の友達がウォーマン・オンザ・フェスティバルというのに誘ってくれまして、これは女性だけの演劇祭、といものだったんです。アメリカといえども女の人がどうしても地位が下、というか待遇が低くなっていまして、女性たちが自分たちだけで演出も照明も音響も全部やりたい、という趣旨の演劇フェスティバルがあったんです。
 これを観て私は衝撃を受けまして、私もこれに参加したいな、と思ったんですね。
それでその実行委員の方にお話しましたら、「じゃぁ是非、ビデオを送ってくれ。そしたらこちらで判断します」と言われて、「作品はあるの?」と聞かれた時に「はい、心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)という作品をこれから女性だけで作ります」と、その時に言ったんです。
 それから日本に帰ってきて、「さぁ、心中天の網島をどうやって作ろうかな・・」と思った時、どうしても太竿三味線の音が聞こえてくるんですよね。
 それで私は女の三味線さんをお願いしたいと思いました。でも女流の三味線さんを知らなかったもので、どうしようかなぁと思った時に、偶然大阪のある方から連絡が入り、東京でお会いしました。その方と話しているときに、ふと「どなたかご存じありませんか」と訪ねました。そしたら「一人素敵な方いるわよ。神代(こうしろ)初美さん。この方だったら作曲もしてもらえるし」といわれました。神戸の方だったので、「あのぉ、東京の方でどなたか・・・」と聞くと「東京は知らないわ」と言われました。
 私は東京で舞台をやるので、いやぁちょっと神戸の方は・・と思ったんですけど、すぐに電話してくださったら丁度電話が通じておはなし出来ました。それで、この出会いを頂いたのだ、と心を決め、大阪に会いに行きました。
 そうしましたら、まぁ、行ってびっくり。初美師匠は、太夫さんで三味線さんではなかったんですね。私は三味線さんで作曲してくださる方を探していたので、大胆にも「引き語りされるんですか?」って聞きましたら、「いや、しません」と言われて・・・、それで、どうしよう、と思いました。「八百屋お七」の踊りの下ざらいを部屋の隅で聞かせて貰い、「上手な方だなぁ」と思いました。
 数日後に電話がかかってきて、「色々考えたんだけども、やっぱり自分の相方三味線はうちの師匠が一番上手やし、一番ええ、と、だからうちの師匠をつこうてくれへんか?」と言われまして、その方の名前が人間国宝の『鶴沢友路師匠』で、当時齢九十歳にならんとされる方でした。
 人間国宝と聞いて、とても私ごとき小さな公演にはお願い出来ない、という風に思っていたんですけども、まぁこれが不思議なというかありがたい巡り合わせで、『心中天網島』のご出演をして頂けました。これが初美師匠との出会いです。 
 近松門左衛門が亡くなって二百八十年という年に、今から二年前の二〇〇四年、近松の足跡を尋ねたい、と思って『生誕の地』と言われています福井県の鯖江市と、山口県の長門市、そして竹本座のあった大阪、この三か所で近松門左衛門の『心中天網島』を上演させて頂きました。他にも石川県、富山県にも行かせてもらったんです。
 私は、この近松さんの作品をもっともっと、世界の方にもですけど、日本の方にも観てもらいたい、という思いを強く持っています。
 三作目として『大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ』を選びました。これをどのように上演しようかと思った時にですね、「弾き語りでやりたいな」と思ったんですね。
 それで初美師匠にお電話して、
 「三味線習いたいんですけど、東京でどなかたご紹介していただけませんか」ってお願いしました。
 「ええよ」
 「次回作で弾き語りやりたいんです」といったら
 「あー、そらええな。あんたな、一生やる気あるか」って聞かれました。
 「えー、一生・・・・近松さんは私のテーマ作家です」
 「そやったら自分の弟子になって、しっかり名前も取って、それで舞台で引き語りをしなさい」と言っていただきました。
 それで今は、竹本初美師匠の弟子とならせてもらい、浄瑠璃三味線と太夫としての勉強を続けさせてもらっています。 
 この『大経師昔暦』は、中にお正月の場面で、万才が謡うという場面が出てくるんですけども、この時に鼓が出て来るんですね、それで鼓の方と一緒にやりたいなぁと思って、そこで藤舎花帆さんという本当に才能のある新進気鋭といいますか、魅力的な方に出てもらいました。
 花帆ちゃんには、踊りも踊ってもらいましたし、「大経師昔暦」は花帆ちゃんのおかげで面白い、良いものに仕上がっていると思います。  

 お蔭様で、夢だった私の故郷・京都でもこの作品は上演することが出来ました。
この作品はカナダでもやりたい、と思っていますし、この作品を持ってロシアにも行きたい、と考えているんです。二九〇年も前に書かれた、そのままの近松の原文どおりで上演し、十分わかりしかも面白いといってもらっているこの作品を、もっともっと育てて日本中の人たちに見て貰いたい、公演してまわりたい、と思います。全国の皆さんのところに行きたい、と思っています。
 そしてもちろんチャンスがあれば、『心中天網島』は、友路師匠もお元気ですし、もう一回皆様に観てもらいたいなぁ、と思っております。

 私の夢は、一つ、近松を世界中の人に観てもらいたい、二つ、その国の言語で、その国の俳優さんたちが近松の作品を、その国なりの楽しさを見出してもらって、上演してもらいたい、ことです  

 明日は、私のこれからの夢を聞いて下さい。
 
● 四日目 未来のこと ●
 
 昨日は、日本のシェークスピアと言われる近松の舞台の話をしました。日本の代表的な四つの伝統芸能である、能、狂言、歌舞伎、文楽は、大抵男の方たちが中心なんですね。
 私は、今女性で生まれていますので、私が近松をやるときに、出来たら女だけで作りたい、という風に思ったんです。女だけで作る、近松門左衛門の『心中天網島』がお蔭様で好評をいただき、続く、『大経師昔暦』も女性である花帆さんと一緒に作っていったというお話を昨日しました。
 これで私が当初三本の近松門左衛門の作品をやりたい、と思っていた夢は達成したんです。今日は私のこれからの夢の話しをさせていただきます。
 まず伝統文化については、近松門左衛門の作品を十本上演したい、と思っています。
 今、近松という名前のはっきりでていない『賢女手習並新暦(けんじょのてならいならびにしんごよみ)』という近年歌舞伎でも文楽でも上演されたことのない、誰も見たことのない作品を制作していますし、近松五作目には『心中万年草』という作品をやろう、自分の中では決めています。
 今後上演していく作品については、近松さんが「この作品、やってやぁ」と私にインスピレーションもらえるんじゃないか、と思ってますので、今世、十本やらないであの世に行くかもしれませんけども、でもあまりそういう事を気にしないで十本やるぞ!と思っています。  

 『心中天網島』で、竹本初美師匠と出会ったことで、浄瑠璃の稽古を始め、そして竹本初丸というお名前を頂きました。
 今、義太夫の方は中々お稽古する方も少なくて、舞台もとても少ないんですけども、なんとか女性の方で浄瑠璃を、楽しみでいいと思うんですけども、やってくれる方が増えることを初美師匠と一緒に考えています。
 浄瑠璃の楽しみを、日本人の方に伝えたいし、またその事を世界の人に、こんな芸能があるということも、もっともっと紹介していきたいな、っていう風に考えています。
去年の十二月二十日に、兵庫県立芸術文化センターで、私は初舞台を踏ませていただきました。八〇〇席の劇場で、本当にどのくらいのお客様が来て頂けるのか、と心配していたんですけども、さすが上方と言いますか、ほぼ満席に近いお客様が十二月の忙しい時期にも関わらず、たくさん来てくださいました。
 これから私は【竹本初丸】というお名前を頂きましたので、一生懸命、義太夫のお稽古に励みたいという風に考えています。

 そして二つ目には、「和の輪」の三本柱であります「学ぶ」ということがあります。
これは子供の時から、日本の伝統文化に慣れ親しんでもらえるような環境をどういう風にしていったらいいかなぁ、と考えているんです。
 私は、日本舞踊とか、長唄、狂言もお能も、もちろん日本舞踊も、書道、華道、茶道と、お稽古事が大好きなんでたくさんお稽古してきたんですけども、そういう横の繋がりがもっともっともってですね、たくさんの方々が、一つでもいいので日本の伝統文化と繋がってもらいたいし、繋がっていけるような環境をどうやって作ったらいいかなぁと考えています。そのための仲間つくりを始めたい、と考えています。

 今から数年前にルイジアナ工科大学の教授に頼まれまして、ルイジアナで行われましたコンバット・フェスティバル(格闘訓練祭)に先生として参加しました。
 これはアメリカの俳優さんたちというのは、格闘技を出来る人じゃないと役がこない、ということもあって、肉体訓練をされるんですね。それがアメリカ中あちこちで、コンバット=戦う=フェスティバルという名前の集まりがもたれています。
 私は歌舞伎の立ち回りを教えてくれと呼ばれまして、二日で二回、何十人もの方に提供してきました。
 時間は朝九時から夕方六時ころまでで、参加者は、プロの俳優さんとか学生さんとかなんですけども、こういう風に一年に何回かトレーニングするのはとてもいいな、と思って、私も日本で始めたい、と思ったんですね。それで話を聞きましたら、アジアには一つもコンバットフェスティバルはない、と言われまして、日本でコンバットフェスティバルやっても駄目だろうなぁ、と私は思いまして、そこで池見酉次郎先生が提訴されてましたけど、ヘルスアートという概念がぴったりじゃないかなぁと思ったんですね。ヘルス=健康、アート=芸術だと。
 池見先生は、踊りとか日本舞踊とか歌とかをずーっとやることによって病気が癒えてゆくということを提唱されて方なんですけど、私は近い将来、ヘルス・アート・フェスティバルを色んなジャンルの踊りや歌や、そして日本の武術を取り入れた形で、最初は本当に小さく始めたい、と考えています。

 そして三つ目、三本柱の三つ目は「海外」という事があります。
この「和の輪」は、ハリウッドのシークレット・ローズ・シアターの又村かずきさんのところと一緒に何かやろうね、といつも話し合っているんですけども、今、目の前の企画としては、沖縄を舞台とした『八月十五夜の茶屋』いう作品があるんです。これはバーン・スナイダーが終戦直後の沖縄で体験したことを小説にしたもので、当時アメリカでよく読まれた本です。
物語は、第二次大戦の終戦後、沖縄に民主主義を教えるためにトビキ村に赴任したフィスビーは、村人たちに民主主義を教えようとするが、うまくいかず、民主主義とは押しつけるものではなく、相手のことを理解し認めようとする態度こそが民主主義の第一歩であることを、その村に新しい産業を興し、村が豊かになり大団円で終わるという後味のいい物語え、民主主義は押しつけるものではないということをユーモアのなかで喜劇として描かれていて、一九五六年に映画化されました。これをシークレット・ローズ・シアターが四年ほど前に上演して、かずちゃんが主演女優賞をとったりしたんですけど、これを出来たら沖縄の俳優さんと、ハリウッドの俳優さんと一緒に舞台を作ろう、という企画を今勧めています。
 去年も文化庁に申請して予算を頂けなかったんですけども、今年なんとか通って、来年には『八月十五夜の茶屋』を、日本とアメリカで上演したい、と夢見ています。

 またシークレット・ローズ・シアターとは、もう一つ別の企画があって『古事記』の中の話とギリシャ神話の中の話がとても共通している話があるんですね。ですから『ギリシャ神話』をシークレット・ローズが英語でやって、『古事記』のはなしを和の輪が日本語でやって、そして二つの話を彩を織りなすようにクロスしてですね、何か面白い、エキサイティングなことが出来ないか、という事も考えています。

 伝統というのは、受け継いでくれる若い人たちがいて、その人たちが育っていき、また次の若い人たちに伝統をバトン・タッチしていくというものです。若い人たち子供たちに日本の文化を好きになってもらって、そして楽しみとしてその稽古を続けていってもらい、その中からプロになってくれる人が育つといいなぁと、毎日毎日私は思い続けています。
 その為に、伝統文化に関わっている人たちはみな、稽古場と上演場所・劇場にみんな苦労しています。
ですから出来たら、私は銀座に劇場を作りたいと思っています。
 こういう伝統文化に関わる人たちが、日本中の自分の地域の美しい日本文化を伝承し発展させている人たちが、舞台に立てるような、そんな小さな劇場が出来たらいいなぁ、ということも私の未来の大きな大きな見果てぬ夢です。

 今年も新しい年が始まりました。
私の今年のテーマは「あいうえお」なんです。これはあるテキストの中から見つけた言葉なんですけども、あい(愛)・うん(運)・えん(縁)おん(恩)、これを大事にしていこう、と思っています。  

 皆様の一年が良い年でありますように・・・四日間ありがとうございました。
 
NHKラジオ深夜便「ナイト・エッセイ」での話を編集
二〇〇六年一月九日〜一二日放送
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