2000年2〜3月 |
わたしが前進座を退座することを決意し、劇団からの承認をまっていたとき、友人の小林光恵さんの家に泊まりに行きました。
光恵さんとはいろんなことを話し合える友人で、その夜も、前進座をやめた後、義母の介護をしながら何ができるのかなぁ、とぼんやり考えてました。まず名前を決めました。いくつか名前を書き出して、二人そろって「和の輪がいい」と思いました。
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2000年6月15日 |
前進座を退座。
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2001年2〜3月 |
JUCEE(日米コミュニティ・エクスチェンジ)のNPOインターンに参加し、サンフランシスコのジャパンタウンにあるAATC(アジア系アメリカ人シアター)という劇団でインターン。
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2001年6月18日 |
日本の文化を世界に発信していこうという和の輪が誕生。
10月 東京で旗揚げ公演。
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2004年11月27日 |
ロサンゼルスのコンベンションセンターで行われた第25回ジャパンエキスポに、和の輪の姉妹劇団のシークレット・ローズ・シアターのブースの手伝いをした。
2日間のお祭りが終わり、片づけていたとき、シークレット・ローズ・シアターの代表であるカズ・マタムラさんが、「小夜子さん、いい字を書く青年がいるわ」といった。
片づけが終わりかけの彼のブースにたどり着き、見た瞬間、この青年はすごい、と思った。
八戸香太郎・・・という札幌で生まれて、京都で修行している人。
「僕は動く線に興味があります。動く線が僕です。動く線に命をかけてます。」
このことばを聞いて、私は感動していた。
「私は和の輪っていうグループやってるんです。」
「あ、その”和”と”輪”は語源が同じなんですよ。」と、自分の作品集を出してきて、見せてくれた。
「人が手をつないで輪になっていて、真ん中に屋根があって・・・南山に雲起きて 北山に雨下す・・・万物はつながっているという意味でこの言葉を添えました。」
背中に電気が走った。
ついに見つかった!
和の輪のロゴマークにさせていただくことで話が決まり、別れ際に「その作品あったらくださいね〜」と声をかけた。「あるかな〜」と彼。「あったらよろしく〜」といって別れた。まさか、ロシアのサンクトペテルスブルグの美術館にすでに売られたものとは知らずに・・・
わたしはカナダに、彼はNYに行った。
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12月10日 |
NYの香太郎さんからメールが届く。
「ロゴの元になる作品本体は一度ギャラリストに売っていますが、いまストップの要求をしてチェックしてもらっています。
http://www.dutsu.com/gallery/index.html
http://www.dutsu.com/persons/hachinohe.html
もうしばらくお待ちを。。。」
彼の他の作品をみて仰天する。
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12月24日 |
「ギャラリストから買い戻した」とのメールが来た日に、和の輪のロゴくんは手元に届いた。
ロシアのサンクトペテルスブルグを経て、傷1つなく、シンプルでしっかりとした額にはいって婿入りしてくれた。
彼がこの作品を、2000年に製作していたことを知り、またまた仰天。
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2005年1月3日 |
プラスのエネルギーの強い関係者たちが集まり、和の輪の事務所に額を掲げる儀式を執り行った。
篠田先生が、玄関にも和の輪のロゴマークを入れた看板を取り付けてくれた。
全てがぴたりと収まりなんだか気分が良かった。
参加者は、国文学者で、和の輪顧問の米津千之先生、千葉工大の篠田裕先生、松戸の阿部京子さん、和の輪理事の古仲裕二さんと荒武恵美子さん、美容師の仲沢祥子先生、つくば大学医学部の学生・石川みがきくん、和の輪代表の城谷小夜子。少し遅れてすばらしい葬儀社の滝本昌二・千代夫妻も赤羽から参加してくれた。
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1月8日 |
京都で八戸香太郎さんと再会。大いに語り合った。
このロゴの製作が全く同じ月だとわかる。「このロゴは小夜子さんを追って、サンクトまで行ったんですよ」本当にそうかもしれない。 |